多くの人と犬猫の日常が奪われた被災地
あなたが犬や猫と暮らしているなら、毎日彼らの名前を呼んでいると思います。
おやつをねだったり丸くなって眠ったり、犬猫の姿にあなたの頬は緩んでいるのではないでしょうか。
そんな当たり前の日常がある日突然なくなるなんて、あなたは想像したことがないかもしれません。
それが現実となったのが、2011年3月に起こった東日本大震災の被災地です。
甚大な被害に輪をかけたのが福島県の原子力発電所事故。
福島県のおよそ12%が避難区域となり16万人以上が避難しました。
そして、避難区域で暮らしていた犬猫およそ16500頭の70%以上が飼い主が消えた家に取り残されたと言われています。
犬:1470頭 猫:200頭 合計:1670頭
2011年9月末の仮設住宅におけるペットの飼養頭数(環境省)
福島県内で仮設住宅が設置されたのは17市町村。
そのうちペット飼育可能な仮設住宅があったのは9つの自治体
200の犬と400~500の猫が取り残された原発被災地・飯舘村
原子力発電所から半径20㎞の範囲は、住人でさえ許可なく立ち入れなくなり、多くの犬、猫、牛、馬及び豚などが餓死しました。
一方、原子力発電所から20㎞以上離れた地域は、避難区域になってからも人の立ち入りが許されました。
私の作品群に登場するのは、原子力発電所の北西およそ30から45㎞にある福島県飯舘村の犬猫たちです。
飯舘村には、およそ200の犬と400から500の猫が残されたと言われています。
避難住宅でのペット飼育が認められず、多くの飼い主が飯舘村に犬猫を置いたまま避難しました。
犬猫たちは、家族の消えた家や庭で来る日も来る日も家族の帰りを待ちわびていました。
立ち入りのできた飯舘村の犬猫が、なぜ避難できなかったのかは、この展示で私なりの考えを追々お伝えします。
飯舘村役場の依頼で、犬40頭余りの預かりを岐阜県のNPO法人が受け入れた。
被災地の犬猫に会いに行く 放射能の恐怖
私が飯舘村の犬猫を初めて訪ねたのは、原子力発電所の事故から1年近く経った冬。
犬猫のレスキューをしていたボランティアに出会い、避難区域に犬猫が取り残されているとはじめて知りました。
6500人余りの全住人が避難した飯舘村は、まさにゴーストタウン。
放射線測定器のアラーム音は鳴り続けました。
室内に吊るされた洋服、庭に転がる子供の遊具。猫の「ピンキー」が取り残された庭を訪ねると、生々しい生活の痕跡に目を奪われました。
「今すぐここから立ち去りたい」放射能への恐怖から、経験したことのない居心地の悪さがこみ上げてきました。
「ニャン」
いつの間にか、猫が私を見上げていました。
「ピンキー?」
原発被災地の犬猫を訪ねる動機
あれから10年余り、これまで私は200回以上飯舘村の犬猫を訪ねています。
まさかこれほど深く飯舘村の犬猫たちに関わるとは思っていませんでした。
はじめは、人が住めない場所に犬猫が残されたことへの強い違和感と怒り、そして犬猫たちへの同情が私の足を動かしました。
どれだけ孤独な時間を重ねても、犬猫たちの心は曇りませんでした。
「たくさんのかわいそうな犬猫」と呼ばれた彼らは温かい光を放ち続けました。
私は現地で会う犬猫が大好きになりました。
そして、私が現地へ向かう動機は変わりました。
「彼らに会いたい」
犬猫たちは、私達の心を柔らかく温かくしてくれます。
彼らは怒りや同情よりも、強い力を私に教えてくれました。
二度と同じことを繰り返さない優しい社会を作りたい。
そのために、犬猫たちの輝きと彼らが教えてくれた力をこの作品群で伝えたいと思っています。
2014年にスタートした「Call my name」の写真展示は国内で20回以上、そして台湾と中国でも開催しました。
コロナ禍の影響もありますが、作品が膨大になった事情もあいまって、近年は展示会の開催を控えております。
オンラインであれば、写真の枚数もテキストの量も気にせず展示を作れます。
そして、何よりいつでもどなたにでもご覧いただけます。
鋭意更新していきますので、今後もぜひ当WEBサイトをご覧になって下さい。
このタイトルはかつて飯舘村の犬猫を一緒に訪ねた私の友人が考えてくれたものです。
「原発事故の被害を受け全村避難となった福島県飯舘村には、およそ200頭の犬と400から500匹の猫が取り残されました」
ニュースでは数字に置き換えられた犬猫たち。
しかし、彼らと顔を合わせると1頭1頭が自分の家族である犬猫と変わらぬ存在と、すぐにわかります。
そして、彼らもかつては家族に名前を呼ばれ暮らしていました。
どこか遠くの自分とは関係ないぼやけた存在ではなく、1頭1頭の輝きを知り、彼らに愛情を持って欲しいとの願いがこもっています。