私が原発被災地へ足を運ぶようになって最初の春、うたは4匹の子猫の母になりました。
原子力発電所の事故から1年経った2012年のことです。
飯舘村の犬猫の保護や給餌をするボランティアがまだ少なかったこの時期、猫を巡る深刻な問題が起こっていました。
それは、たくさんの子猫の誕生です。
- 飯舘村では猫の不妊化は一般的でなかった。
- ほとんどの猫が外飼いだった。
といった状況を考えれば、この結果は必然でした。
ボランティアが保護した数より多くの猫が生まれ、飯舘村の猫問題が長期化する原因となりました。
これについては、また別の機会に詳しく説明します。
ここでは、うたの子猫たちとの出会いで私が得た気づきをお伝えします。
原発被災地で最初に出会った子猫
「飯舘村でたくさんの子猫が生まれている」
春になりボランティアからそう聞いていました。
しかし、6月になるまで私が子猫を目にする機会はありませんでした。
この頃、私は警戒区域での犬猫レスキューにも参加するようになり、飯舘村訪問の間が空くことが増えました。
飯舘村で何度も警察に車を停められたり、時折村民とのコミュニケーションがうまくいかなかったり、重圧で無闇に犬猫を探し回れなくもなっていました。
他にも様々な事情はありましたが、思い返せば縁がなかっただけかもしれません。
道端を歩くうたに会ったのがきっかけでした。
家に背を向け進むうたに声をかけると、彼女は回れ右。
うたに誘導され庭に入ると、母屋の屋根ですばやく動く小さな物体が目に入りました。
人が暮らさぬ被災地で生まれた子猫たちの未来は…
カラス、トンビ、キツネ。
人がいなくなった土地で、子猫の天敵は勢力を増していました。
人前では甘えん坊ですが、うたは子猫たちを守っていました。
立派なお母さんです。
しかし、子猫が無事に育っても飯舘村で暮らす限り猫たちは野生の一部です。
野生動物にフードを奪われることもあれば、命を脅かされることもあります。
人目がなければ、小さな病気や怪我が致命傷になるかもしれません。
そして、何より誰からもあまり気に留められずに生きることになります。
我が家の猫と比べると、私にはうたの子猫たちの未来が曇って見えました。
私はうたから、子供たちを守るバトンを受け取る決心をしました。
うたの飼い主に偶然会えた日に、子猫たちを連れて行く承諾を得ました。
うたの避妊手術の承諾も得ましたが、うたは飯舘村に戻す約束です。
私はうたを再びひとりぼっちにしてしまいました。
ただ、この頃私は1~2年で犬猫と暮らせる新しい避難住宅ができ、多くの問題が解決すると考えていました。
しかし残念ながら、私の考えは外れることになります。
そして、うたが庭でひとり過ごす日々は、ここから4年近く続くことになります。
被災地でうたの子猫を保護してわかったこと
「すみ」「おたべ」「のりこ」「ふく」
うたの子猫たちには、食べ物の名前を付けました。
家人の避難後に生まれた子猫たちは、少なからず空腹を味わったはずです。
我が家ではお腹一杯食べて元気に育って欲しいとの願いを込めています。
子猫たちは、人との暮らしを知らずに育ちました。
我が家に来てしばらくの間、彼らは怯え戸惑い私を威嚇しました。
しかし、やがて子猫たちは私に心を開いてくれました。
そして、みんな甘えん坊に育ちました。
うたの子猫たちを我が家に連れてきた理由は、彼らが私が飯舘村で出会った最初の子猫だったから。
もし最初に出会ったのが別の子猫だったら、彼らは野良猫になったかもしれません。
家猫と野良猫は、境遇で区別されます。
しかし、家猫と野良猫が持つ資質は違いません。
うたの子供たちが私にそれを証明してくれました。
わかりきったことかもしれません。でも、私にはとても大切な学びです。
違っているのは、人との関係性。
猫をまるっきり人と同じに考えるのは違うかもしれません。
しかし、共通点もあります。
私にはどちらも他者の愛情が心の栄養になるのは間違いないと感じられます。
誰かの愛情によって、心が満たされ安らかな気持ちで笑って暮らせます。
うたの子猫たちは、私の良き家族となりました。
うたの物語はまだ続きます。